虫送り(むしおくり)行事について

2012年の虫送りは終了しました。 次回は2013年度の開催をお待ちください。 詳細がわかり次第 HPにて情報公開いたします。

駐車場がありませんので、遠方から訪問いただく場合は、三重交通バスまたは、近鉄内部線/八王子線などの公共交通機関をご利用くださいませ。

虫送り行事など 地域の活動に参加などご興味のある方は、自治会や子ども会へのご入会をご検討くださいませ。

三重県四日市市八王子町370の吉田神社を起点に

※1参考文献:DVD「虫送り行事の記憶」著作:四郷郷土歴史研究会

※2出典:引用元は四日市市八王子町自治会文化教養部編集の 「ふるさと八王子 今と昔」から

ふるさと八王子

※四郷地区市民センターにありますので、学校での地区の歴史などの授業その他、八王子地区の歴史や行事その他調べる際にご活用ください。

 

虫送りの歴史と意義

八王子町では、原則毎年7月の第三土曜日を中心に、吉田神社の神事のひとつである「除虫祭」が開催されています。 翌週には小林町でも同様の神事が執り行われます。
この神事は「虫送り(むしおくり)」ともいわれ、全国各地で行われていますが、その様式や組織などはさまざまです。
四日市市川島町では大正末期に廃止されるまで七月中〜下旬のイモチの発生する頃になると「イモチ送り」(実態は虫送り)が執り行われていましたし、その他、垂坂町・堂ケ山町・三本松町・八田町・宮妻町などでも虫送りが実施されていました。
しかし、その多くは迷信と退ける人や火事の危険を考えて大正末期から昭和初期に廃止されました。(「四日市市史」第五巻史料編民俗)

この「虫送り」は、連体した共同の利害に関して村全体で行う共同祈願であり、雨乞いや疫病送りなどに類するものです。現に四郷地区では、幕末期の文久元年(1861)六月に旱魃(かんばつ)があり、それに伴って八王子村を含む四か村共同で大矢知代官所(現四日市市大矢知町)に
雨乞いを実施したい旨の願書も見られ、雨乞い神事が行われていたようです。(川嶋家文書「歳々留」)
したがって、八王子町に伝わる虫送りも、当初は村全体にふりかかる災い(虫害)を振り払い五穀豊穣を祈願することから始まったものと考えられます。
  また、「虫送り」の特色として、祭りを通じて「村境」が意識されます。村境には祭りに際して幟(のぼり)や榊(さかき)が立てられたりすることがありますし、今日の虫送りでも、室山町(元々は室山村)との境に御幣(ごへい)を立て、
大鉦・大太鼓を担いでの乱舞や移動コースも村内を中心としたものです。祭り自体も火祭りであり、村内にいる害虫を大鉦・大太鼓で脅してあぶり出し、松明の火で虫を殺すという意味あいでした。
そのため、昭和45年の復活以前の虫送りは、虫を町外に追い出したあとは鉦や太鼓も叩かずに走って帰ってくるというスタイルをとっていました。
そのような意味からは、今日行われている虫送りは「虫祭り」となって、実質的な虫送りの要素は少なくなり、夏祭り的なものへと変化した(「四日市市史」第五巻史料編民俗)
といえるのではないでしょうか。

吉田神社吉田神社

虫送り 発祥と変遷

八王子町の虫送りはいつ頃からはじまったのでしょうか?
文献や物証から虫送りが行われていたことがはっきりするのは明治6年(1873)です。
それは小林家文書の明治6年「出入日記帳」の七月二十二日に「村方虫送り也」とあるからです。また、虫送りの道具の一つである大鉦の側面に「明治十年四月新調」とあり、明治十年四月に大鉦が新調されています。
さらに明治三十九年(1906)九月には「伊勢国三重郡四郷村四箇村は、毎年七月二十一日(土用三郎)には虫送りとて(中略)長さ八間に幅二間位の大太鼓および幅二間位の鐘をかき、ドンカンとそれぞれに敲(たた)きつ、その終りに神社を三周して会(解)散す」
(風俗画報)と四郷村で虫送りが行われていた記事が残っています。
ただ、ここでは四箇村とありますが、そこに記載されている道具類と今日に伝わる神事の道具類の比較から四か村全体ではなく、八王子村の虫送りを指すものと考えられます。明治期には、八王子の虫送りが大太鼓・大鉦を用いて実施されていたことを物語ります。
  時代が下がった昭和十五年(1940)七月の新聞記事にも「三重郡四郷村八王子の村吉田神社では二十二日午後四時から虫おくり式を挙げた。」「式に使う鉦と太鼓が実にすばらしい大きなもの」と虫送り実施とその神事には大鉦・太鼓が用いられてた様子が書かれています(伊勢新聞)
また、「□人がかかりで村内を担ぎ廻り「ウンカモイモチモミナデテツケ」とよばばりつつ夜通し叩きまくる(中略)若衆から老人も子供も総掛かりで叩きまくった」と紹介され、虫送りが村民総出の一大神事であったこともうかがわれます。
しかし、このように盛大に行われていた虫送りですが、古老の話によると、戦争の激化や担ぎ手不足もあって、一時中断しました。その後、復活しましたが、昭和三十年代になると再び行われなくなりました。
復活当時の虫送りは、各家庭で松明を準備し、神社で祈祷した新星な火を松明に移してもらい、自分の所有する田に松明を灯しました。
その後、中老と呼ばれる壮年の人達が大鉦をつき若衆が太鼓を担ぎ、町内を練り歩きました。
乱舞は出雲橋から八王子駅近くの室山町との境までの間五か所で行われました。
帰りは鉦や太鼓を打ち鳴らすのをやめ一目散に走ってくるというものでした。

復活とうつりかわり

現在の元となる虫送りの復活は昭和45年(1970)です。まだ当時の練習は神社の倉庫前で行われていました。
しかし「大太鼓と大鉦を担いで街を練り歩きたい」という若者たちの純粋な願いの高まりが、虫送りを再び立ち上げました。
現在のような立派な道もなく、大太鼓も大鉦も長い石段を青年団が肩に担いで上げ下ろしをしたものです。
行列は、旧鳥居前から新出雲橋・火の見櫓・旧八王子駅へと練り歩き、現在のように決められた場所ではなく、所々で乱舞がおこなわれました。
道中はすべて人力で、すこぶる過酷で荒々しい男の火祭りです。
このように「虫送り」は昔ながらの伝統を受け継ぎ、見事復活はしたものの、松明の復活までにはいたりませんでした。
昭和47年、大鉦を載せる台車が完成、翌48年、大太鼓の両面を張り替えました。
オーストラリア産の牛革で、胴は数センチメートル短くなりましたが、雨にも対応できるようにと漆が塗られました。黒く光る胴体に朱のナイロンロープが映えて、どっしりとした重量感にあふれています。
昭和50年、大鉦に三段十二個の提灯を取り付けたことにより、大鉦の位置が遠くからでもハッキリと確認でき、明るさも増して、とても華やかになりました。昭和52年に拝殿前まで車道
が延び、西広場の完成や倉庫の建設など相次いで整備されました。
昭和55年には大太鼓の胴の修理を行い、この年から「神事は神社・行事は自治会」という役割分担がはっきりと分かれました。
四日市市邦楽連盟会長作曲の「八王子祭りばやし」「神楽ばやし」が出来上がり、牛車を改造した子供用の山車も完成しました。
後に(昭和61年)桑名の「石取り祭り」に教えを受け、石取りのリズムを模した「八王子ばやし」が大きな御幣をつけた大榊をいただく新しい
山車(「神車」とよび、これが行列の先頭であった)が加わりましたが、少子化の余波を受けて、現在は倉庫で出番を待っている状態です。
昭和63年6月、八王子町文化保存会が発足、町民の文化的意識の高揚との活動の企画、推進を担うこととなったのです。
なお、八王子町土地改良区耕作組合の指導と協力により、平成17年度から休耕田を利用して、松明に使う麦わらや菜種を作って、地域の大人と子供達がふれあい、
体験と思い出作りをしています。

常夜灯

 

神事

「虫送り」は「除虫祭」とも呼ばれています。
祭典の日は、土用に入って三日目、いわゆる「土用三郎」と決まっていましたが、それを22日に固定し、今では毎年第三土曜日に行われています。
祭典開始は、午後三時からです。
当日朝早く、社殿や周辺を清掃、装飾します。
前もって、御幣に使う青竹12本や大麻(おおぬさ)(お祓いの時に使う大きめの榊の枝)や玉串などは用意しておきます。
この青竹には御幣を、また、大麻と榊には紙垂(しで)を取り付けます。

大麻や玉串は祭典で使いますが、青竹の御幣は、祈祷の後、町境や田んぼのあぜに立てて害虫の侵入を防ぎ、豊作・無事を祈るためのものです。
八王子町六本、小林町二本、笹川二本用意し、境内は旧神殿あとと御神池に立てられます。
提灯に火をともして御神前に奉じ、害虫の駆除・農作物の豊作・氏子の健康安全・家運の隆盛・町の繁栄を祈る「除虫祭」を執り行います。

午後6時15分になると、この提灯の火を小松明(たいまつ)に移し、宮司の先導のもとに責任総代代表がこれを抱えて100余段の石段を降り、
旧鳥居戸で待つ道中用の大松明に点火します。
大太鼓の両側に「高張り提灯」を従え、祓いの儀式をおえれば、「たたき出し」となり、いよいよ行列の出発です。
「護摩木のお炊き上げ」の行事は「六月祓い(むつきはらい)」とおなじ意味合いのもので、昭和54年(1979)から行われるようになりました。
大太鼓や大鉦が町内をくまなくまわり、叩き出した氏子たちの一年の罪や穢れ(けがれ)を「御神門(ごしんもん)」に集めて、護摩木とともに
「かがり火」で炊き上げることにより「おくり祭」本来の意義がより一層際立つのです。
夏の夜空を焦がして燃え盛る大松明の炎と、勇壮な大太鼓の乱舞との競演で、吉田の森が氏子たちの熱気に包まれるとき、まつりは最高潮に達します。

吉田神社

主体組織

昭和35(1960)年以降約10年間途絶えていた青年団は、昭和43年に再編成されました。
やがて、会員数も除々に増加し、男女合わせて30数名の陣容となり、それに伴って活動も次第に活発化して機運も高まり、昭和45年
「虫送り祭行事」が見事に復活されたのです。

「虫送り祭行事」は次のような組織がそれぞれの役割を似ないながら、八王子の全町あげて毎年盛大に行われる伝統の火祭りです。
一、自治会 総指揮をとり、企画・召集・準備・行政への働きかけや、申請などを行う。
二、吉田神社 宮司・総代・宮世話・宮守等が中心となり、神事に関することの一切を行う。
三、文化保存会 虫送り行事の存続のため平成元年に発足し、練習から祭当日の行列の巡行にいたるまで、すべて指導する。
四、青年団 保存会と連携をとり、行事の中心的担い手として活動する。大太鼓・大鉦・宮太鼓を受け持ち、女子青年団員は小鉦を叩く。特に大太鼓の連打と乱舞は、この青年団の組織抜きでは語れない。
五、子ども会 親子でぼんぼり作りや松明作り、ポスターの製作に携わる。特に耕作組合の全面的な協力の下に、松明の材料となる麦の種をまき、麦踏み・刈り取り・脱穀を子ども会の行事として取り入れ、麦わらに加え、菜種殻も自給自足できる体制にある。
六、自主防災隊 交通規制、クルマの誘導等に協力する
七、寿老会 松明作りの指導を行う
八、婦人会 道路の清掃を行う
九、体育部 当日の松明を担当する
これらの主体組織が、相互に力強く連携をとりあって「虫送り」がそんぞくされてきたのです。
町をあげて、老いも若きも「虫送り祭り」のために一致団結し、情熱を燃やすことにより、活気あふれる住みよい町づくりに貢献しています。

カンバン

行列の巡行

戦前の行列は大太鼓と大鉦とほら貝だけのシンプルな構成で、出雲橋へは行かず、大通りを東や進み、火の見櫓と永谷薬局、それに八王子駅の三か所で
大太鼓も大鉦も舞ったようです、いずれも青年たちがずっと肩に担いでいましたので、終わると肩が赤く腫れ上がったといいます。
交通規制もない時代、路線バスを止めたり、民家の軒先や樋を壊したこともあったようですが、一切苦情はいえないという暗黙の了解があって、勇壮な祭りの一こまを垣間見ることができます。
  現在は二つの高張りと提灯と大松明が先導して、子供用山車、大太鼓、大鉦の順に鳥居戸跡を出発した行列は、中道を西へ進み、大通りに出てさらに西の「新出雲橋」へ向かいます。
ここで子供の締めを行い、保存会と青年団による大太鼓の乱舞が披露されます。次に子供の叩き手が入れ替わり、叩き方も変わります。乱舞の後、短い時間ではありますが、子供たちの「神輿」も練ります。
  旧火のみ櫓跡と旧永谷薬局に進むとまた、子供たちが交代し、旧八王子駅跡地まで行きます。
ここで山車三台が天白川を背に右から子供の山車・大太鼓・大鉦の順に勢ぞろいして締めを披露し、その後、乱舞に入ります。
大太鼓を担いで回すたびに観客から拍手が起こり、活気付いた担ぎ手たちは一層荒れ狂い、祭りの気運を盛り上げます。最後に七五三の締めを行い、子供用山車、大太鼓、大鉦の順に、お囃子を打ちながら神社へ引き返します。
  吉田神社の登り口の急坂では、子供たちも山車から降りて、総員で声を掛け合い、随所に炊かれたかがり火に頬を赤らめながら、拝殿前広場まで引っ張り上げます。
  拝殿前広場に御神殿に向かって左から山車、中央に大太鼓、大鉦の順で横一列に並び、「八王子祭ばやし」と「神楽ばやし」の締めを行います。この間「護摩木」のお焚き上げ神事が執り行われます。
その後、燃え盛る大松明に囲まれた拝殿西広場で、大太鼓が最後の力を振り絞り、クルクルと回転しながら乱舞・乱打を繰り返したり、見物人めがけて突進したりするとき、祭りの庭は熱気に包まれます。
いよいよ最後に大太鼓と大鉦を拝殿前に移動させ、特別に二度の締めを行い、木遣りを唱和して終了します。この時、特大太鼓の担ぎ手が力をあわせてこれを頭上に高く掲げる場面がありますが、若者たちの達成感がみなぎり、充実の一幕です。

 

八王子駅跡付近

 

大太鼓と大鉦のリズム

虫送りの大太鼓と大鉦のリズムは、少しも変わることなく受け継がれてきました。
現在は新しい叩き方となり、宮太鼓・平太鼓・締太鼓・小鉦などが入り乱れ、多彩なリズムとなっていますが、あえてここでは、大太鼓と大鉦についてのみ記述します。
  叩き手は大太鼓の中心に体をおいて、日本のバチで叩きます。叩き方は七・五・三を基本とし、「叩き出し」と「道中」と「最後の締め」とでそれぞれ異なります。
  七・五・三の基本三回をひとくくりとし、最初を「ひとくされ」、つぎを「ふたくされ」、最後三つ目を「みいくされ」といいます。
  叩くリズムは、七な六・七を連打し、五は四・五を連打とし、三は二・三を連打とします。 
だんだんと叩き方を速め、「みいくされ」目は連打となり、叩き手は渾身の力を振り絞り、限界まで叩ききります。
この基本のリズムは、祭りの間一貫して変わりませんが、始まりと最中と終りとで次のよな違いがあります。なお、両手で打つのは連打のときのみで、一打のときは主に右手のみを使いますが、得手により左手で打つことも、左右交互に打つことも自由です。
1:「叩き出し」は、行列が出発するときの最初に行うものをいいます。「ふたくされ」から入り「みいくされ」で連打を打ち、最後の一打を打たずに「ほら貝」で子供の「叩き出し」につなげます。
2:「締め」は「虫送り」のすべての行事が終わるときの叩き方で、最後に大太鼓と大鉦があわせて一打を打って終了です。
3:「道中」は、七・五・三の基本を繰り返しになります。
  いずれにしても、大太鼓と大鉦の掛け合いであり、大太鼓が一つ打てば、大鉦もそれに合わせて一つ叩きます。間の取り方や叩く音の大きさなど、この両者の呼吸が絶妙になったとき、互いに響きあうことになるのです。
※「くされ」とは、稲や麦の穂束を「一回転ねじて縛る」ことから「一区切り・一まとまり」という意味のように思われます。

新出雲橋

※2012年に行われた時の虫送りの画像です

虫送り

虫送り

虫送り

虫送り

虫送り

虫送り

虫送り

虫送り

虫送り

虫送り

虫送り

虫送り

虫送り

虫送り

虫送り

虫送り

虫送り

2013年6月30日の松明つくり


  梅雨明け前にもかかわらず暑い日の続く 2013年6月30日(平成25)吉田神社にて

虫送りで使う松明の製作が、・八王子老人会・耕地整理組合・青年団・虫送り保存会・子供会から大人・子供あわせて30人から45人ほどの人が集まり行われました。
世代を超えて一緒に作る「虫送り」で利用される 大松明を13本。小松明を35本を、年長者から子供に作り方を伝えながらも手際よく作られていきました。

虫送りたいまつ作り

製作の現場を見せていただいていたので、そのときの説明を少しご紹介すると。
  松明に使われている材料は、「竹」「なたねがら」「麦わら」の三種類。

虫おくり たいまつ作り虫おくり たいまつ作り虫おくり たいまつ作り虫おくり たいまつ作り虫おくり たいまつ作り

一番最初に、麦わらをしきつめ 次になたねがらを上に重ねて、中心に松明の芯になる竹をを置きます。
竹を置いたら今度は、さらになたねがらを重ねその上に麦わらをかぶせてワラ縄で縛りあげることで 
一番外側から、一層目が麦わら。二層目がなたねがら。中心に竹。の松明が出来上がります。

虫おくり たいまつ作り

カメラで製作風景を撮影していると、ふと、芯材になる竹を木槌で叩いて割れ目をいれていらっしゃる方がいたので
何をされているかお聞きすると。

「松明に火がついて燃えはじめると、その熱で竹の中の空気が膨張して破裂して危ないから」
それを避けるため芯になる竹は、木槌で叩き、最初から割れ目が入った状態のものを使うとの事でした。

出来上がった松明は、7月の第三土曜日に行われる虫送りの当日、大きな松明のうち6本を吉田神社境内に。
その他小さな松明は、虫送り当日に太鼓やみこしが通る道路のガードレール沿いに取り付けられることになるそうです。

虫おくり たいまつ作り虫おくり たいまつ作り

このあと、7月に入ると、八王子に住む子供たちの太鼓の練習なども始まり「虫おくり」に当日に向けて準備がすすんでいきます。

場所:

2012年7月6日:製作 2013年7月15日更新 四郷ホームページ作成委員会